生誕地は中国太原である.その頃のことは何も覚えていない.物心がついた幼児期から小学校卒業まで新潟県との県境,信州信濃の柏原(近隣の数村と合併して信濃町となる)で過ごした.そこは俳人一茶も豪雪を避けるように江戸に旅立った寒村だ. 私はその厳しい自然の中でスキーや水泳などいろいろな遊びを身につけた.十分に自然を満喫し,小学校の卒業に合わせて長野市にある善光寺の近辺に引っ越した.
そこは山深い柏原と違って盆地の中にあり,比較的温暖である.古くから老若男女の参詣者が多く,そのお陰で栄えた県都とも言える.その善光寺の麓に県下でもっとも大規模な中学校がある.そこに入学予定だったが,その手続きがまだ済んでいなかったため,慌ただしい職員室でそれを済ませて入学式に臨んだ.新入学者がほぼ45名程度のクラスが9クラスもあって驚いた.しかし年齢別人口構成から見ると我々の学年は全国的にも最小の人数であったが,その後は戦後の第1期ベビーブームを迎え,2年後に入った新入生は17クラスにもなった.そのために週1回の校長講話は講堂に全員入りきれず2回に分けて行われた.歴史的にも珍しい初めてのマスプロ教育のもとで3年間過ごしてきた.その後近隣の長野高校に入学したが,なぜか2年後もクラスの数は変わらなかったと思う.高校に入学するや全校で応援歌と一緒に山また山で始まる校歌を歌わされた.それに誘われたのか分らないが,高校時代の大半は山岳部に身を置き,標高3000メートルのアルプスの峰々を放浪した.その生活もあっという間に過ぎ,少年老いやすく学なりがたし,一寸の光陰軽んずべからずの箴言は身にしみた.卒業を機に故郷を去る者もいたが私は地元の信州大学に籍を置いた.
大学生になった途端になぜか家庭教師の依頼が色々なところから舞い込んだ.子供の勉強をみてやるだけの短い拘束時間での小遣い稼ぎは嬉しかった.大学授業は高校までとは違い,講義は自身で選択するのが基本で,かなり自由だった.入学当初戸惑うこともあったが先輩の助言を素直に受け入れて決めた.在学中には1964年6月16日新潟地震(M7.5)や1965年8月3日から約5年半も続いた松代群発地震を体験した.これらの身近な大事件は今も鮮明に覚えている.それらが地震学へと誘ったのか分からないが,卒業を機に北海道大学大学院理学研究科地球物理学専攻修士課程の9月入試を受けるべく北海道に渡った.すでに齢22歳なっていたが札幌で初めての木賃宿生活が始まった.6ヶ月間の猛勉強末,大学院入試に合格して応用地球物理学講座の院生になることが決まってホッとした.
応用地球物理学講座では爆破を利用した人工地震観測に基づく地下構造調査が主な研究テーマであった.私も実際の野外調査に時々参加しながら人工地震学を野外の観測から学んだ.4年次から参加する講座ゼミでは主に地下構造と地震波伝播に関する論文紹介や研究発表が多かった.地震波動の理論については外国論文や古典の名著などから研鑽を積んだ.今思い出しても大学院修士課程ではひたすら論文漁りだったと云える.さらに地震波の理論的研究を深めるために博士課程に進んだが,博士課程での生活は修士とほとんど変わらなかった.その博士課程途中の1973年3月に,北大理学部付属の浦河地震観測所助手に採用すると指導教授から告げられて博士課程を中退し,4月から奨学生の身分から正規の給与取りになった.
その観測所は助手と技官からなる二人体制であったが,初代助手が札幌地震観測所に移動したためにその後釜として引き継いのだ.とは言うものの自然地震観測はズブの素人だったためにしばらく先輩助手の指導を受けながら観測所管理や実際の地震観測を体得した.一般に地震観測は人工的ノイズの少ない人里離れた静かな山奥で行うものである.この観測所もときどき熊が出没するほどの人里はなれた場所にあった.赴任した当初,観測所はすでに建ってから数年経っていたが,平屋の鉄筋コンクリート造りのがっしりした建物だ.中には事務室,研究室,地震験測室,工作室,浴室,ボイラー室,水洗トイレ,測定器用物置のほか,訪問客用の6畳2間と炊事可能な立派な食堂が揃っていた.さらに移動の手段としての三菱のジープ1台が車庫に収納されていた.まったく人里離れた静かな山奥であったが,地震の研究には恵まれた環境だった.当時はネットワークなど皆無で大きな計算は北大大型計算機センターにあるスーパー・コンピューターで行っていた.したがって計算のためだけに片道4時間のドライブは珍しいことではなかった.さらに観測所周辺の微小地震活動調査ために,月1回の割で衛星点を記録回収のために巡回した.そこで回収された地震波形の検測作業は技官が行い,その検測データから地震の起こった場所を大型計算機センターで計算するが,その震源計算と震源のマッピングは私の担当である.学会直前では何日も大型計算機センターに缶詰になった.そこで計算された日々変化する地震活動については学会の都度紹介してきた.年々電子機器の進展に伴って地震観測体制の整備・統合が図られ,最終的にはテレメータ伝送を導入し,各地震観測点からの信号はすべて札幌キャンパス(地震予知観測地域センター,後に有珠火山観測所と海底地震観測施設が合流した)で直接アクセスできるようになった.
そこで新しく生起した課題は,札幌に伝送される膨大な数の地震波データをリアルタイム処理する自動信号処理法の開発であった.私は情報量規準を提唱されてすでに世界的成果を上げていた統計数理研究所に地震波の自動処理法開発の共同研究を申請したところ,情報量規準の生みの親である赤池弘次先生から同意をいただいた.札幌から2000枚ほどの計算機カードを背負って先生の部屋を訪れたときを昨日のように思い出す.その時から研究室の北川源四郎さんとの統計的時系列モデル研究が始まった.その共同研究の過程で開発された統計学的時系列モデルをいろいろな地震記録に適用して複雑な記録からノイズを分離した地震波形を鮮明に抽出できるようになった.このようにして観測網の充実と地震波形解析法の開発によって地震活動や地震の起こり方の知見を年々増していった.
以上の観測の集大成として,当時生まれつつあったプレートテクトニクス理論の立場に立って,観測所付近に発生する地震は千島海溝側で太平洋プレートの斜め沈み込みによる上盤側の運動の結果であると,ある地震学会で発表した.また1982年浦河沖地震直前に国土地理院が地震予知連絡会で発表した水準観測図を見たとき,これは東西圧縮の異常な歪みだと気づき,地震予知連絡会の北大委員にその可能性を説明した.しかし彼はその異常をすぐに理解できず,普段地盤変化が著しい石狩苫小牧低地帯内のある地点の変化図を私に見せながらこれもノイズの可能性が大きいと疑問を呈された.しかしそのすぐ後に1982年の浦河沖地震が発生した.そして地震後の測量結果は予想したように沈降分は理論通り復元した.一方北大地質学教室の大学院生だったと思われるが,木村学さんが私を訪ねて来られ,日高地方の地震メカニズム解析の結果にたいそう興味を持たれたことを思い出す.当時の北大地質学教室ではプレートテクトニックス理論の話題はタブーで,まだこの種の新しい理論で論文が書ける雰囲気でなかったようだ.今では彼が命名した千島孤のスリーバー西進説は広く受け入れられているが,この説は日高地方の地震観測から明らかになった東西圧縮場の発見が契機になったと思っている.
ところで,厳寒の地で地震観測を手がけてきたという理由で南極のロス島を構成しているエレバス火山(標高3794m)でのテレメーター式地震観測網の建設の依頼を文部省極地研究所から受けた.NSFの支援のもと,ニュージランドのウエリントン大学とアラスカ大学と共同作業であったが,日本からは東大地震研究所の長田さんと極地研の寺井さんが加わり,11月ニュージーランドの南島中央にあるクライスチャーチ基地から米軍のC130の輸送機でロス島のマクマード基地に飛んだ.クリスマス直前まで過ごしたエレバス火山の登山,山頂でのテント生活は忘れられない体験となった.
北大在職36年間のほとんどは国の地震予知計画に沿って,各種の観測に参加し,得られたデータの解析とその新しい解析法の開発に専念してきた.退職約10年前からは陸域のみならず海域での海底地震活動と海底地殻構造調査にも参加するなどして変動する地球の姿を明らかにしてきた.大学生時代,長野で体験した新潟地震や松代群発地震の頃に比べると私の地震に対する理解は格段に深まったのは間違いない.しかし,現実の地震予知の立場からみると地震学への期待は大きいが,依然としてその予測の精度は世間を満足していないようだ.地震学は物理学,化学,岩石破壊学,数学などの基礎学科からなる複合科学である.したがって,そのような学問を習得して初めて地震学の入り口に立てるように思う.2011年東北地方太平洋沖地震後,それまで地震予知の可能性の根拠にもなっていた固有地震説が否定され,地震予知の難しさがさらに声高に叫ばれるようになった.しかし,地震学の進展は目覚ましく,日本周辺の海溝沿いで稠密な海底地震観測網の整備が図られ,今や津波予測が現実になったと云えよう.この現状を鑑みれば,この整備は時々襲う大きな海溝型地震防災への貢献は非常に大きいと期待される.これからはそれらを支える継続的な財政的支援と人の育成が課題であろう.
退職後,私はポスドクで過ごしたワシントン・カーネギー研究所の外来研究員として今も在籍している.そこからは地球のみならず,他の惑星に関する研究成果もどんどん報告されてくる.日々それらのニュースに触れながら,国内においては東京大学地震研究所客員教授,札幌学院大学社会情報学部客員教授,公益財団法人地震予知総合研究振興会副主席主任研究員,情報・システム研究機構・統計数理研究所共同研究員として,地震データの解析やその解析法の開発などを続けてきた.そして2019年からは札幌にある北海道総合地質学研究センターのシニア研究員として身を落ち着かせている.さらに今は世界的なコロナ禍の渦中にあって世界中どこにも行けない状況である.大きな地震が起きないことを祈っている.
最後に,北大在職中に共同研究や講演などでお世話になった海外の大学・研究機関を列挙する.ニュージランド・ウエリントン大学,アラスカ大学,カルフォルニア工科大学,マサチュセッツ工科大学,ブルガリア・ソフィア大学,インドネシア・バンドン地質博物館,インドネシア・バンドン工科大学,インドネシア・パジャジャラン大学,ノルウエー・ベルゲン大学,アイスランド・レイキャビック大学,コロンビア大学・ラモントドハーテイ地球観測所,米国地質調査所,そしてワシントン・カーネギー研究所などがある.その他旅の途中に立ち寄った研究機関なども含めて多くの方々にお世話になった.心よりの感謝を申し上げたい.